海野和男先生の本に心を打たれ、
高校に入学してからカメラを買ってもらった。
機種名は「E-620」。
マクロレンズで昆虫を撮っているうちに、森全体に興味が湧いた。
交尾をするギフチョウ。オスがメスの翅を脚で押さえつけるようにして、お互いが向かい合っているのは初めてみた。
周りに自然写真が好きな人が居なかった頃は、自分の伝えたいことにこだわりや、個性があると信じていたが、僕は社会の枠組みの中では「写真家」という自営業をしている少数派でありながら、撮影テーマに関してはめっぽうゼネラリストである。
「なぜ北海道から関東に?」
ある日の帰宅途中、ニホンヤモリを見つけた。初めてのニホンヤモリだったので、迂闊にも部屋で行方不明に。翌日、部屋の壁に張り付いているところをじっくりと観察しながら、マクロレンズを用いて接写した。
僕が埼玉に来て2年、各方面から聞かれ続けた質問だが、僕はいまだにうまく答えられない。
ただ、関東圏に移り住む事は、日本の常識を知る上でとても大事である事は確かであった。
例えば僕は、埼玉の道路がここまでに混むことを知らなかったし、東京の流行り廃りの速さを体感したことがなかった。それは自然を見つめ続ける上ではなんら関係のない事なのだが、自分の写真をどのような立ち位置で世に出して行くのかを考える良いきっかけにはなっている。
僕にとって自然はあって当たり前。当たり前に大切な存在だ。
ニホンザルの親子。夕方、寝床への大移動を観察していると、少し遅れたのか、群れの最後尾を急いで駆けていく母ザルがいた。よく見ると彼女の後ろ脚には、背中に乗り遅れた子ザルが一生懸命にしがみついているのだった。
しかし、未だに僕の核心を写真に落とし込む事ができているような手応えは感じない。僕の写真にも個性はあるのかもしれないが、そんなものは自然写真には全く必要のないものなのではないか?今では悩み、考える事がむしろ楽しみだ。
生き続けること。
それは自分らしくある事を、考え続ける事である。
変容し続ける社会に生きる僕たちにとっては、
とても難しい課題であることは間違いない。
東京の河川敷で出会った一匹のノコギリクワガタ。水牛のようなアゴをオーソドックスに切り取った一枚。彼らしさを引き出すにはこの構図以外に思いつかなかった。
そして僕も今日、自然を見つめる行為と同時に、自由に生きることの難しさを噛み締めているが、そうして足掻くことこそが、きっと人間らしさなのだと思う。
巣立ちをした二羽の雛と、親ツバメ。頭の上より三〇センチあるかないかの距離感覚であったが、彼らにとっては人間も風景の一部なのだろう。
僕は写真を撮ることで、自然と同じように、ただ誰かのそばに寄り添い続けたい。
動物たちのように、目の前のことにひたむきに向き合っていきたい。
それは自分の存在が唯一無二かどうかより、
ずっと大切なことだ。
道路に飛び出した一頭のホンドギツネ。大きな屈伸を一回やると、僕の方を向いた後、峠の道路を横断していった。
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