2020
1
May

偏愛紀行

人間の持つ「想像力」について

ぼくたちは日本人である。

しかしよく考えてみて欲しい。

ぼくらは日本人とはいえど、みんながみんな同じ一族というわけでもない。

ぼくらは日本という「枠組み」の中にいるだけにも関わらず、概念を取りまとめる人間に頭を下げ、税金を納め、オリンピックで「ニッポンチャチャチャ」と一致団結し応援できる。

日本人は顔が似ているから、そんなこと疑問に感じたことはないかもしれない。

でもアメリカに行けば、白人系も、黒人系も日系もいる。同じアメリカという地域にいるけど、本来は系統の違う人間が、同じルールの中で仲良く暮らしているわけだ。

そう考えると「人間」 というのは、動物からすればとても不思議な生き物ではないだろうか?

最近思うのだ。

動物の場合は、大抵ファミリーをつくり、行動を共にするが、

ライオンやハイエナのような動物も一族を越えて仲良くなるなんてことはあまりないし、

大きな群れを作るヌーだって人間のように猫を愛でたりしない。

むしろ動物の中に、僕みたいに昆虫を偏愛するような存在が現れたら、ちょっと怖い。

この「怖い」という感情は、元々人間が持っている極めて動物的な要素の1つである。

例えば人間だって、自分より賢い人間を目にしたら「何かに利用されるのではないか」とか考えてしまうだろう。

それはきっと、僕らが心の底で自分が、

命の危険に晒されている「危機感」を感じているから。逆にいえば、それに打ち勝つ事ができるのも人間の凄いところでもある。

例えば「頭のいい人間」を逆手にとるだとか、情報を聞き出すだとか、そんな理由からあえて立ち向かう、そんな人間もいるだろう?

「恐怖に勝てる人間は強い」というのはここから来ている。ファーストインプレッションによる「恐怖」を別の価値観、それこそ想像力で塗り潰す事ができる人もまた、人間らしい。

でもなぜ人間は、「想像力」を獲得しなければいけなかったのだろうか。

ホモ・サピエンスは個々の身体能力が他の動物と比べてそこまで高いわけではないからだ。

ぼくらは団結しなければならなかった。

マンモスを狩るために。天敵と戦うために。はたまた、他の類人猿と戦うために。

もともと家族だけで構成されていた群れが、

一族同士でつながるようになり、その個体群は50人、100人と、どんどん大きくなった。

なぜそんなことができたのかと疑問に思うだろう?そこでイマジネーションの登場である。

ぼくらはどんなに血縁関係が離れていても、「何か共通のもの」を1つ作れば、繋がることができたという。昔話や、逸話、それこそ山の神や石の神といったものを信じている人間は、

「僕らとルーツが一緒なんだ」となる。

共通の話題があればどんな人間も仲良くなれる、今の僕らとたいそう変わらない。

僕はナルトが大好きだから、ナルト好きな霜降り明星のせいやの話を聞いていると、親近感が湧くし、勝手に仲良くなった気になってしまう。

きっとその辺にいるナルト好きともすぐ打ち解けることができるし、仲良くなれる。

一見当たり前のことを言っているようだが、これは人間にしかない、れっきとした「能力」である。他の動物はニオイが違えば他の一族とみなす。基本的に相容れない。

僕らの持つ「団結力」は「想像力」から派生した能力であり、他にも色々、「想像力」を根源として発達した人間の能力はありそうだ。

「想像力」それは人間の持つ、

最強の力である。

エゾエンゴサクに訪れるビロウドツリアブ

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しかし想像力は、僕のような変人を生み出す。

世の生命に、僕がどんなに肩入れしようとも、

僕は永遠に片思い。キツネが僕によってくるのはせいぜい「餌をくれる人」と勘違いされた時くらい。

虫は潰さないように持つこと自体精一杯だ。もう仲良くなろうなんて微塵も思わない。

想像力で団結力を得た人間が待っていたのは、「孤独感」という新たな概念だった、

ということだろう。

最近はこう考える。

どんな時も、

「僕らはどこかでつながっている。」

そう思わせてくれるような、

写真が撮りたいと。

高橋怜央

 

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