僕的写真論

野生動物と人間とのあり方とはなんだろう。

動物を撮る人の中で自然の姿を写す事や、

野生動物らしさを求める事は大切だと言われている。

それは、僕たちが求める野生動物の理想の姿。僕もつい、野生動物らしさを求めて写真を撮りがちである。

よりワイルドで、自然な姿を求めている。

実際にそんな場面に遭遇する事は楽しいし、動物は輝いている。

しかし今撮った動物は本当に人の手を借りていないのだろうか?

とたまに思うこともある。

僕が撮ったこのオジロワシは、僕の見ていないところで漁師から魚をおすそ分けしてもらっているかもしれないし、

そのような境界は極めて曖昧だ。

現実は野生動物が常に人の助けを受けずに生きている訳ではないし、寧ろ利用して生きている種が殆どだろう。

動物は、強かな存在だ。

例えば北海道では、観光客やカメラマンによるヒグマへの超接近やキタキツネへの餌付けがしばしば問題になる。

病原菌の感染やロードキルと言ったあからさまな実害が出ているものに関しては「餌付けはやめよう」と言い易いが、

餌付けの中でも実害が低く(見える)、

すでに社会に浸透しているものに関して、

あまり大きな声を上げる事は難しい。

そもそも、野生動物と人間の関係がいい塩梅に保たれているかを、

私たちが判断するのはとても難しいからだ。

絶滅危惧種II類の鶴、タンチョウが、

いつか普通種として存在するには、

餌付けが偶然功を奏した、過去の保全事業の幸運を噛み締めながら、

生息地を分散させる取り組みを行っていく必要がある。

現時点で出来る手軽な方法から、より正確でリスクの少ないものを模索する事が正しいとすれば、

タンチョウの餌付け行為が、

種の保全に貢献した事実は認めても、現状のまま餌やりを続ける事が望ましいとは言えない。

人との軋轢を生まないように、

鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリでは、

冬期の餌付けを計画に沿って削減し、

自立を促す方針だという。

どんなに現実で人に助けられながら生きている種でもいずれは「野生動物」としての役割を負わなければいけない。

勿論個体数が増えてからもタンチョウはどこかの稲もみをついばむだろうし、どこかの田んぼで子育てをするかもしれない。

また、かつての里山が水生昆虫の楽園だったように、都市を利用する生き物たちの存在にも目を向ける事が大切だろう。

野生動物と人間とのあり方とはなんだろう。

僕たちは理想と現実を常に両方見ながら、

考え、模索していくしかないのだと思う。

写真で何かを伝える側としては、”野生動物らしさ”を語るのに、

人に手なづけられた動物を被写体にするのでは嘘になる。

この昆虫の大顎のかっこよさを見て欲しい、そんな思いで、望遠レンズを使用する事は避けたい。

伝えたいものがなんなのか。

何のために写真を撮るのか。

その点を常に意識していかなければならないと思っている。

少なくとも僕は、

自分が見てきたものを出来るだけ正確に伝えていく努力をしなくてはいけない。